10月23日にムヒディン首相がアブドラ国王と面会し、緊急事態宣言 (State of Emergency) の発令を進言したとの報道があって以降、マレーシアの政界は蜂の巣をつついたような騒ぎになっています。新型コロナウイルス (COVID-19) の感染拡大のために緊急事態宣言を出した国は、すでに世界中でそれなりの数に上りますが、なぜ今回マレーシアでここまで大きな反応を引き起こしているのか、その背景にある問題をお伝えします。
(2021年1月12日:追記) 新型コロナウイルスの感染をコントロールするため、アブドラ国王が2021年1月12日にマレーシア全土に対して緊急事態宣言を発令しました。本記事の内容は、今回発令された宣言について分析したものではありませんのでご了承ください。(参考―The New Straits Times: “[Updated] King declares State of Emergency to fight Covid-19“)
緊急事態を宣言できるのは誰?
マレーシアの憲法 (第150条:原文英語) によると、ざっくり訳せば “治安、経済活動、あるいは公共の秩序において国家を脅かす深刻な緊急事態が存在すると国王が判断した場合に、国王が緊急事態を宣言する” と定められています。 つまり、緊急事態宣言を発令できるのは国王のみということです。
しかし、第150条は第40条と合わせて適用され、そこでは “国王は内閣あるいは内閣の権限の下にある大臣の助言に従って行動する” と定められているため、国王単独では緊急事態を宣言できない仕組みになっています。今回ムヒディン首相が国王に面会して緊急事態の宣言を進言したのは、この条文に基づいているというわけです。
緊急事態宣言で何が変わるのか?
最も大きな点は、内閣 (首相) と国王の権限が大幅に強化されるということです。
通常であれば、法案というのは議会での様々な討論や修正を経て採決・承認されるものです。しかし、緊急事態下では緊急条例 (Emergency Ordinance) としてそのプロセスをすっ飛ばして法案を通すことができます。
また連邦政府自体の権限も拡大され、通常は独立した立法議会を持つ州政府に対しても権限を行使できるようになります。
ちなみに、緊急条例は通常の法令と同様の効力を持ち、しかも一部を除いて現行の憲法に優先するまでの強制力があります。そのため、緊急事態下にある連邦政府は、憲法 (第55条1項) で規定されている“前回開催時から6か月以内に議会を召集すべき”という法令を修正できる、という点が今回の騒動における焦点の一つとなっています。
ムヒディン内閣としては、議会を開くことで政治的な動き (11月から12月にかけて審議予定となっている予算案の拒否など) により内閣不信任案提出につながりかねない=「感染拡大中の解散総選挙を避けるためには緊急事態宣言が必要だ」というスタンスを取っています。緊急事態宣言下では、予算案等の各種法案は内閣の承認を得られさえすれば議会で審議する必要がないため、速やかに通すことができることになります。
しかし、野党を中心に「国王には議会を停止する権限があるため、そのためにわざわざ緊急事態を宣言する必要などない」という声が上がっています。
野党が受ける影響
緊急事態が宣言されれば政治的に大きな影響を受けるのが野党です。
9月末頃から、野党PKRのアンワル・イブラヒム (Anwar Ibrahim) 党首は「議会の過半数を超える議員から支持を得た=自分が首相となるべきだ」として活発な動きを見せています。憲法第43条2項のAでは、“国王は議会の過半数の支持を受けていると思われる人物を新首相として選出できる”とあり、実際この条項を念頭にアンワル党首は10月13日に国王と面会しています。面会直後に判断が下されることはありませんでしたが、議会が開かれれば対立する各方面から様々な手段でムヒディン現首相に対する圧力がかけられるのは確かでしょう。来年度予算案を拒否→議会の過半数が現内閣を支持していない→内閣不信任案の可決→内閣総辞職→政権交代という道筋も見えていました。しかし、一旦緊急事態宣言が出されれば当面の間 野党は手も足も出なくなります。
緊急事態下になってしまえばある意味で内閣のやりたいようにできるため、「緊急事態宣言を政治闘争の手段として使うべきではない」としてムヒディン首相を批判する声も少なくありません。
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選挙を止めるための手段?
多くの識者が言っているように、現行の感染症予防対策法でも新型コロナウイルス (COVID-19) 対策ということで大規模な集会やイベント等については規制できます。しかし、選挙に関してはこの法令を根拠に中止できないという点が問題となっています。
10月はじめに国会議員が1名死去したことにより定員に空きが出ており、補欠選挙が11月23日公示、12月5日投票という日程で予定されています。また、サラワク州の州議会選挙も5年の任期が切れる2021年6月までに行う必要があります。さらに、状況によっては連邦議会の解散総選挙という可能性も決して低くはありません。
保健省をはじめ公衆衛生のリスクを危惧する識者からは、“感染が急拡大している時期に選挙をするのは何としてでも避けるべきだ”という強い意見が出ています。実際、サバ州の選挙後にどれだけ感染が拡散したかを見るとそのリスクは決して過小評価すべきものではないと見られています。そのため、「感染リスクが下がるまで各種選挙を一時的に停止するには緊急事態宣言が必要だ」というのが内閣の見解のようです。
一方、「感染が収束していない状態でもリスクをコントロールしつつ選挙を無事に行った国はある」とし、新型コロナウイルス (COVID-19) を理由に選挙を中止すべきではないという声も出ています。
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まとめ
こうして考えると、今回議論の的となっているマレーシアの緊急事態宣言については、やはり公衆衛生よりも政治的な意味合いが濃いという印象を受けます。この件が非常にセンシティブであることもあり、国王は急遽各州のスルタン (君主) と緊急会合を開催。他州のスルタンの意見も踏まえた上で最終判断を下すようです。
緊急事態が宣言されるのかされないのか、もし宣言された場合は全国一律なのかそれとも州単位に適用されるのか、マレーシア中が固唾をのんで発表を待っている状況です。
(追記) 2020年10月15日夕方、アブドラ国王は「緊急事態宣言の必要はない」と表明。今回ムヒディン内閣が進言した同宣言の発令については正式に否定されたことになります。(参考―New Straits Times: “State of Emergency not necessary, says YDP Agong“)
(2020年10月26日:テキスト修正)
[参考資料]
(2020年10月24日) Explained: What Is An Emergency And How It Would Affect Us During The Pandemic. SAYS. URL: https://says.com/my/news/emergency-in-malaysia-and-how-what-does-it-mean-for-parliament-budget-2021-and-people?_ga=2.200606830.1188083016.1603202643-1868610176.1601963797 (参照日:2020年10月25日)