マレーシア地元情報

【エッセイ】配車アプリと、消えた「交渉」という名のコミュニケーション

投稿日:2026年3月17日 更新日:

Traffic jam during sunset

マレーシアで劇的に便利になったことの一つが、配車アプリ「Grab」の登場だ。

2011年に「MyTeksi」という名前でスタートしたGrabだが、今や配車アプリの枠をはるかに超えて、フードデリバリー、生鮮食品の購入、ファイナンスにいたるまで、生活のあらゆる分野をカバーする巨大プラットフォームとして東南アジア各国で事業を展開している。

今では想像もできないが、配車アプリが世に出る以前、タクシーに乗るという行為は中々にハードルが高かった。どうしても必要がある場合はコールセンターに電話をかけて配車してもらうが、そうでなければ道路に立って流しのタクシーを捕まえるのが普通だったのだ。

タクシーを止めることに成功すると、まずは行き先を告げて様子を見る。「そっち方面は渋滞してるからイヤ」「道知らない」「近すぎる」といった言い訳の数々、さらには理由すら言わずに乗車拒否されることも珍しくなかった。

乗車拒否という第一関門を突破しても、次に「(目的地)までなら、料金は◯◯だけど」と向こうの言い値から値段交渉が始まる。料金メーターはついているものの、何も言わずにメーターを使ってくれる運転手は少数派だった。

だから、乗客の側も「この時間帯でこの行き先なら相場はこれぐらい」というのを把握しておかないと、多かれ少なかれボラれることになる。相手を見て無茶な料金をふっかけてくるようなタクシーには、こちらから乗車を拒否してドアをバンっと閉めてやるぐらいの気合いも必要なのだ。

値段に折り合いがついていざ乗車となっても、今のGrabのような快適な車両はまずない。当時のタクシーは現地メーカーのプロトン車(「Iswara」か「WIRA」)がほとんどで、これがまた今とは比べ物にならないぐらいに使い込まれていてボロい車が多かった。

ショックアブゾーバーが完全に抜け切っていて、段差を超える度に脳しんとうを起こしそうな程の突き上げが来る車、エアコンが効かないので排気ガスまみれの幹線道路でも窓を全開にして走っている車、シートのクッションがヘタリにヘタって、あらゆる振動がお尻にダイレクトに伝わってくる車など、目的地に着くまでに体力をガッツリ削られた記憶は今でも鮮明に覚えている。

Malaysia Taxi

マレーシアの旧型タクシー by Ilya Plekhanov

それが今や、配車アプリがすべて解決してくれるようになった。車種も、料金も、ルートも、運転手の評価さえも、透明性があって、交渉する必要もなく、スマホを指先で数回操作するだけで完結する。

間違いなく便利になったし、ストレスも減った。しかし、時々ふと昔のタクシーを懐かしさと共に思い出すことがある。値段交渉で時に妥協し、時にやり合った、あのヒリヒリとした緊張感。「ボラれたかもしれない」という小さな敗北感と、「次こそもっとうまく交渉してやる」という意気込みを同時に抱えながら目的地に降り立ったあの感覚。

あれはたぶん、全部引っくるめてタクシーという名の儀式みたいなものだったんだろう。良くも悪くも生存本能があふれ出るような当時の街の呼吸を、デジタルで色々なものが効率化された今だからこそ懐かしく思うのかもしれない。

しかし、便利で効率的になったはずのシステムをすり抜けてくる、東南アジア特有の人間性を今でも感じることがある。

Grabドライバーには、副業として自家用車で小遣い稼ぎをしているという人も多い。少し前に、ショッピングセンターから自宅までGrabを利用した時のことだが、やってきた車が何とBMWの5シリーズだった。ホテルのリムジンじゃあるまいし、普通にタクシーとして使う車ではない。さすがに何度もナンバープレートを確認したが、間違いなくGrabアプリに表示されている車だった。

マレー人の運転手に「今までGrabで乗った中で一番いい車だよ」と言うと、「休みの時は暇だからGrabやってる。自分の車を運転するのは好きだし」とのこと。いや、いくら暇だからといっても、一回数百円からせいぜい千円少し程度の稼ぎにしかならないGrab。場違いな高級車を使いながら、ただの時間潰しだと言い切るところが実にマレーシアらしい。

Grabなどの配車アプリを使うと、運転手と直接話す必要はほとんどない。しかし、黙っていてもこちらが日本人だと気づくと、それまでかけていたマレー語や中国語のラジオを、何気なくApple MusicやSpotifyのJ-POPチャンネルに変えてくれる運転手にこれまで何度も出会った。たとえ会話がなくても、コミュニケーションがすべてなくなったわけじゃない。

社会がデジタル化されていくにつれて、全体として人間同士の関係性は希薄でドライになっていく。しかし、どれだけ便利になっても、ここはマレーシアだと感じさせてくれる人間味がまだ残っていることに気づくと、少しだけホッとする。

もちろん、今さら不便だった昔のタクシー時代に戻りたいとは思わない。それでも、運転手と交渉したり、車に乗ってからお互いの家族の話をしたりと、タイパ重視の今では「無駄な会話」と言われるようなコミュニケーションこそが、東南アジアの匂いと熱を帯びた記憶として残っていくのかもしれない。

おすすめ記事:「【エッセイ】「Mr. チン」」

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