マレーシア地元情報

【エッセイ】「Mr. チン」

投稿日:2020年7月14日 更新日:

Jar full of ice coffee

by เอกลักษณ์ มะลิซ้อน on Pixabay

首都クアラルンプールから車で約二十分ほど離れた住宅街の一角に、一軒のカフェがある。

銀行や飲食店、ミニマートなどが並ぶ典型的なショップロットに入っているカフェだが、シングルオリジンの豆も含めた美味しいコーヒーに加えてクオリティの高いフードメニューやスイーツも楽しめる店で、とりわけ平日の夕方以降や週末になると流行りに敏感な20代から30代の客が多く訪れる。

このカフェに、Mr. チンは毎朝10時頃にやってくる。

Mr. チンは (おそらく) 70代ぐらいで、眼鏡をかけた姿は、パッと見ると中国の温家宝 前首相に似ている。こまかく言えば、前首相をもう少し細くして髪をやや長めのスポーツ刈りにしたような雰囲気だ。彼はいつも白のTシャツ、黒い三本線の入ったアディダスの白のハーフパンツ、そしてサンダルという同じ服装で現れる。

指定席は、入口ドアを入った右手から店の奥にかけて延びる6メートルほどのベンチシートの一番手前の窓際だ。そこに先客がいた時は、仕方なく窓から二番目の席にやや落ち着かない様子で座っている。頼むドリンクは決まってアイスラテ。この年齢の人にしては少し意外な気もするが、とにかくアイスラテがお気に入りらしい。

ある時、Mr. チンが近くに車を止めているところを見かけた。乗っているのはシルバーのメルセデス、それも比較的大きな排気量のモデルだった。年式こそ新しくはないものの、外観を見る限りよくメンテされているとみえる。

そういえば、いつ見ても同じ白シャツ&白短パンという服装も、決してヨレヨレではなく清潔感がある。きっと自分なりに何かこだわりを持っているのだろう。もしかすると、スティーブ・ジョブズの黒タートルネック&ジーンズみたく、家に同じものを何セットも用意してあるのかもしれない。

Mr. チンは、いつも一人でカフェにやってくる。そして、新聞を読みながら途中でよく電話をする。

ちらほら聞こえてくる内容からすると、電話相手との話は十中八九 政治ネタである。ナジブ元首相の汚職事件についてああでもない、こうでもないといった話から、次の選挙でどの政党が票を伸ばすか、マレーシア経済を成長させるために必要な政策は何か等々、とにかくネタは尽きない。声だけ聞いていると、まるで報道番組に出ている政治経済の専門家が話しているかのようだ。 (ちなみに、マレーシアにはこういうおじさんがいっぱいいる。)

しかし、国内で新型コロナウイルスの感染が拡大したことで3月中旬に活動制限令 (いわゆる“ロックダウン”) が始まり、持ち帰りを除いて飲食店の営業は禁止されることが決まった。そして、Mr. チンの姿もまったく見かけなくなった。

制限が大幅に緩和された6月初旬になって、久しぶりにそのカフェへ行ってみたところ、Mr. チンがやってきた。

どうやら、偶然その日がMr. チンにとっても何か月かぶりに店に顔を出した日だったらしい。カフェのスタッフや何人かの常連客と「久しぶり、元気だったかー?」と言葉を交わしていた。その姿を見つめる周りの人々の表情は、どことなくホッとしたように見えた。

その日、Mr. チンは電話で政治談議をすることもなく、ただ静かに、美味そうに、アイスラテを飲んでいた。

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