KLやペナン、マラッカ、イポーといったマレーシアの都市部では、街を歩いているだけでいくつものお洒落なカフェを目にする。木の風合いを生かした内装で温かみのある雰囲気に仕上げたカフェもあれば、白を基調としたインテリアにパステルカラーのソファーといったモダンな北欧テイストのカフェもある。もちろん店のデザインやインテリアが居心地のよさに欠かせないのは確かだが、もう一つとても大事なものがある。
トイレだ。
日本を出て世界を旅した時に「やっぱり日本のものは凄い」と実感させられるものは幾つかあるが、その一つはトイレだと思っている。観光小説として有名な「県庁おもてなし課」(有川浩 著) の中でも『旅先のトイレはかなり重要なファクターだ』とあるが、確かに3度の食事よりもっと何回もお世話になるトイレはそれだけ影響も大きい―カフェのトイレも。
マレーシアの場合、そこそこ古い建物に入っているカフェは少なくない。ペンキを塗り直してあると外から見ただけでは分からないものの、実は築何十年も経っているというショップロットもある。そして、そうした場所にあるトイレはちょっと使いにくいことが多い。
理由の一つは、トイレの空間が狭いことである。
スペースが限られているため、トイレは男女兼用になっているところが一般的だ。仮に「男子トイレ/女子トイレ」と表示されていたとしても、結局は壁一枚隔てただけの個室が隣同士で並んでいるだけである。仕切り壁もそれほど高くなく、その上の空間がお隣とフリーで繋がっていて音も何も丸聞こえのところもある。男女のトイレ境界線がこれではちときつい。当然ながらバリアフリーなんてものもない。
加えて、カギの状態が怪しいトイレも結構ある。ロックがきちんとかみ合っておらず、カギをかけていても外から引くと簡単に開いてしまうようなドアだと、トイレにいる間はわざと物音を立てたりして「人が入ってますよ~」というシグナルを出しておかないと全くもって落ち着かない。
一方で、ロックを解除しても中からドアが開けられないという逆の意味で魔のトイレも存在する。
あるカフェのトイレは建付けが悪いため、ロックを最後まで押し込むとドアがズレて引っかかった状態になってしまいそのままだと開かなくなる。ドアを一定方向に押し上げてやれば動くのだが、何も知らずに閉じ込められた側は当然パニックだ。トイレ内に「カギをしっかりかけないで!出られなくなります」という何気に恐ろしい張り紙はあるものの、これがまたどう考えてもカギをかけて「どっこいしょ」と座った後でしか見ないようなところに貼ってある。このトイレからSOSを発することになった客の数は、間違いなく1ケタでは済まないだろう。
しかし、古い建物にあるトイレの最大の問題は何といっても水圧である。
水圧が弱いと、前の人が流した後ではタンクに水が中々溜まらない。そのことに気づかず入ってしまうと、いざ流そうとレバーを押してもまるで手ごたえがない。何度押したところで「ヒュコッ」というような間の抜けた音が出るだけで、肝心の水は流れない。こうなった時の“やっちまった感”は経験した人なら分かるだろう。耳を澄ますとかすかに「・・・チロチロ」とタンク内に水が滴っている音はするが、そんな調子では流せるようになるまでいくらかかるか分かったものではない。
しかし、そこはマレーシア。水圧が弱いトイレには大抵、水がいっぱい入ったバケツが置いてあり、風呂で使うプラスチックの手おけ的なものもプカプカと浮かんでいる。これで好きなだけ流せということだ。原始的だが、ある意味で確実ではある。もちろん本来のやり方で流すようなパワーはないにせよ、それでも何回か水を汲んでは便器に入れるという動作を繰り返していると「・・・ゴポゴポ」と微妙な音を立てて流れていき、とりあえず良心の呵責を感じない程度には処理できる。(マレーシアにも和式とほぼ同じタイプのトイレがあり、その場合はもっと簡単だ)
バケツ&手おけとくれば、もう一つマレーシアのトイレでほぼ100%目にするのが、便器脇の壁に引っかけてあるホースだ。一体何に使うかお分かりだろうか?
答えは「手動ウォシュレット」である。
とりわけマレー系の人は、トイレットペーパーよりも水でおしりをキレイにすることが多いという。ホースがあるところではそれで器用に洗うわけだが、その際に結構な割合の人が便器のフチに足をのせた状態で中腰のポジションを取っているらしい。和式ならともかく、洋式トイレでこれをやるのは中々にバランス感覚が必要である。もちろん、実際の場面を見たわけではないし見たいとも思わないが、便器や便座にクッキリと残る靴跡を目にすればどんな体勢か大体の想像はつく。
ちなみに、「手動ウォシュレット」の後は、消火用のスプリンクラーでも作動したのかというほど個室内が便器から何からビショビショになっていることが多い。あれでよく自分の服がずぶ濡れにならないものだと、使用後の個室を見る度にいつも感心する。きっと何かうまい方法があるのだろう。
以前、NHK・プロジェクトXの『革命トイレ』だったかの回で、本家ウォシュレットは水量や水圧、水の出る微妙な角度から最適な水温まで、徹底した研究と失敗を重ねて生み出された技術だと見た記憶がある。一方、ホースの先を押さえる指一本の力加減、または水を出すトリガーの引き加減で全てが決まる「手動ウォシュレット」も、ある意味では熟練の技と言えるかもしれない。ただし、これも大切なのは水圧だ。
ある時ふと気づいたのだが、トイレ本体の水圧が弱かったとしてもこの「手動ウォシュレット」用ホースには大抵しっかりと水圧がかかっている。だから、トイレに水が溜まらず中々流せなくて困った→だけどバケツと手おけは使いたくない、という人は、タンクの上ぶたを開けてそこにホースで水を入れてやれば、ものの30秒も経たずに満タンにできるという裏技もある。(タンクさえ満タンになれば普通にレバーで流せる)
何はともあれ、こうした“トイレ・サバイバル”を終えて外に出てくると、再びお洒落なカフェの世界が広がっている。このギャップが日本じゃあり得ないよなぁと考える度に、日本のあり得ないほどキレイなトイレが脳裏に浮かぶ。
日本のトイレがとびきり便利な事は間違いない。トイレに限らず何もかもが便利で、抗菌で、清潔な日本は素直に凄いと思う。一方で、生き物としての人間のリアルさが日常生活で垣間見える国々では、身体や脳が刺激を感じなくなるほど環境が整っている場所では得られない体験が待っているのも確かだ。
居心地のいい空間でのコーヒータイム vs 少し緊張感さえ覚えるトイレ、という正反対の世界が混在しているマレーシアのカフェにはどこか不思議な魅力がある。例えるなら、熱いサウナの後で冷たい水風呂に入った時に感じる独特の気持ちよさに通じるものがあるかもしれない。心地よい空間と生々しい現実のギャップに反応して、たぶん脳が活性化するシグナルでも出ているのだろう。いつまでも鮮やかに残る記憶というのは、きっとそうしたプロセスを経ているのだと思う。